感じる、表現する、宮沢賢治「やまなし」
昨日、宮沢賢治「やまなし」の授業検討をした。
あれね、6年生で習う、(´・ω・`)何言ってんだコイツ的なアレですよ。
そこから降りてきたのは、「感じること」と「表現すること」だった。
国語(物語)ってさ、芸術作品ってイメージなのね。
アートや音楽と一緒。
算数は決まった答えがあって、それを導き出していくイメージ。
国語はそうとは限らない。
「やまなし」をはじめとする「文学」から何かを読み取る、読解する、テーマ・教訓を見つける必要は果たしてあるのだろうか。
宮沢賢治は、文章をもって、国語として、芸術を表現したかったのではないかな。
例えば1枚の絵画を見て、ある1曲を聴いて、それから感じたものって人それぞれだと思うの。
人は多様だから、考え方も多様でいいし、それでいい。
誰から教えられるものでも、押し付けられるものでもなく、今ここにいる自分が感じたことが、大切なのさ(*´▽`*)
絵画なのか、音楽なのか、文学なのか、ただそれだけの違い。
感じ方は、人それぞれ。
そんで、それを表現する方法も人それぞれ。
言葉なのか、絵なのか、踊りなのか。
「国語」なので、言葉から感じ、言葉で表現する。
でも、言葉で表現するって難しいよね。
語彙力とか、文章構成とか、いろいろ。
大人でも難しい。笑
そんな時、例えば朗読なら、自分の言葉で、声の強弱で、テンポで、トーンで表現できる。
それを説明する必要は、必ずしもあるわけではない。
その子なりの「感じたもの」を表現しただけ。
そこに答えもないし、説明できなくてもバツじゃない。
ちょっと話ずれるけど、「道徳」と「国語」で違うのは「叙述を基にしているかどうか」だと思う。
知らんけど。笑
合ってるか間違ってるかもどーでもいいけど。笑
俺はそう感じてるってだけ。そんだけ。
人は日常で感じること、非日常で感じることを、それぞれの形で表現している。
自分らしく感じること、表現することを大切にしていきたい。
俺は言葉で伝えていきたい。
理由は「見える時代」になったから。
SNSやらネットやらが普及し、全世界の「つながり」であったり、色んなものが見えるようになった。
マイノリティな意見も、同じことを言っている人がたくさん見えるようになった。
たくさんの人が見える、聴ける、読める中で、伝えていくこと。シェアすること。分け合うこと。
それを言葉で、自分自身で表現していく感じ(´◉◞౪◟◉)
目指すは言葉によって成し得る到達点、臨界点。笑
こたやん@最近の「人とは何か。自分とは何か」に対する仮説は「多様であること・分け合うこと」